群馬県桐生に居た 絵師 村田秀麗
群馬県桐生に居た絵師 村田秀麗
日本には古来多くの日本画を描く絵師が存在しているが、その人々の全容が解っているわけではない。一例を揚げれば,東洲斉写楽なども謎の多い人らしい。さて、ここで、無名の絵師、しゅうれい先生を紹介したい、私共家族と先生の接点はおそらく昭和二十三年頃だったと想像します。銀行員の父が、桐生支店の新規開設の命を受け、奮闘の折り市内の銭湯で、この村田秀麗先生と出会い、以後先生の絵を紹介し、売却した件数は五十九点と領布台帳に残っている。「どんな絵でも描きあげる先生」だった。先生の住所は国鉄両毛線桐生駅から西方二キロ程の多分堤町であったと思うが定かではない、ところが、昭和三十年、父が五十四歳で他界し、先生のその後は何も判らず、当然、先生の経歴を聞き出す方法も得ず、ただただ五十年の歳月が流れ去った。そして平成十五年五月、偶然ある画商からこの先生の作品を見せられ、買い求めた、図柄は孔雀図で桐箱の中には、詳細なパンフレットが添えてあり、その経歴は抜群である。販売元は上野池の端仲町通り不池美術協会となっているが販売年月は印刷されていない、推定では昭和十七年以前か?箱書(題目)は「不老長寿孔雀の図」とし、同一構図の孔雀図を五十点先生が描き、販売元が売ったのである、価格が参拾五園也となっている。さて、その略歴を抜粋すると「姓を村田、秀玲と号す。明治二十九年千葉市に生まれる。十三歳の折り、千葉県主催の共進会に出品し入選特賞を受ける。以来昭和四年迄に国内で18回入賞、特に昭和二年パリー展で入選している、同五年以降は無審査となる。(昭和十年、四十歳迄の経歴を説明書で紹介している)
さて、以上とは別ルートで判明している点を記してみたい。先生は大正七年には号を秀雲とし、昭和十年代には秀玲で二十年代に秀麗さらに秀麗子と変えている。そして、この先生の師匠は、有名な信州高遠藩のお抱え絵師、池上秀畝(しゅうほ)で花鳥を得意としたが昭和十九年に七十一歳で没している。大正七年、この師、秀畝より村田しゅううんがもらった絵手本の掛軸が手元にある。さて、この村田秀麗画伯に関する一連の資料を入手した後、桐生崋山会々長と会った折、「秀麗と言う絵師を知っていますか?」と聞かれた、この桐生での話の発端は、次の通りです。桐生市川内町にある白瀧神社に奉納されている額を描いた絵師が秀麗と言う人であるがこの人が判らない。奉納者は連名で二十三人程になっているとの事であった、当方から手持ちの資料を送付した。その後、山鹿会長の予定では「秀麗展」を計画しているようである。併行して、地元でも秀麗作品が五十点程存在が確認出来たようである。
(熊谷市郷土文化会 理事 馬場國夫記)
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