2009.09.21

群馬県桐生に居た 絵師 村田秀麗

Cagqy485 Cancak6t 村田秀麗先生とその作品のひとつ

群馬県桐生に居た絵師 村田秀麗

 日本には古来多くの日本画を描く絵師が存在しているが、その人々の全容が解っているわけではない。一例を揚げれば,東洲斉写楽なども謎の多い人らしい。さて、ここで、無名の絵師、しゅうれい先生を紹介したい、私共家族と先生の接点はおそらく昭和二十三年頃だったと想像します。銀行員の父が、桐生支店の新規開設の命を受け、奮闘の折り市内の銭湯で、この村田秀麗先生と出会い、以後先生の絵を紹介し、売却した件数は五十九点と領布台帳に残っている。「どんな絵でも描きあげる先生」だった。先生の住所は国鉄両毛線桐生駅から西方二キロ程の多分堤町であったと思うが定かではない、ところが、昭和三十年、父が五十四歳で他界し、先生のその後は何も判らず、当然、先生の経歴を聞き出す方法も得ず、ただただ五十年の歳月が流れ去った。そして平成十五年五月、偶然ある画商からこの先生の作品を見せられ、買い求めた、図柄は孔雀図で桐箱の中には、詳細なパンフレットが添えてあり、その経歴は抜群である。販売元は上野池の端仲町通り不池美術協会となっているが販売年月は印刷されていない、推定では昭和十七年以前か?箱書(題目)は「不老長寿孔雀の図」とし、同一構図の孔雀図を五十点先生が描き、販売元が売ったのである、価格が参拾五園也となっている。さて、その略歴を抜粋すると「姓を村田、秀玲と号す。明治二十九年千葉市に生まれる。十三歳の折り、千葉県主催の共進会に出品し入選特賞を受ける。以来昭和四年迄に国内で18回入賞、特に昭和二年パリー展で入選している、同五年以降は無審査となる。(昭和十年、四十歳迄の経歴を説明書で紹介している)

さて、以上とは別ルートで判明している点を記してみたい。先生は大正七年には号を秀雲とし、昭和十年代には秀玲で二十年代に秀麗さらに秀麗子と変えている。そして、この先生の師匠は、有名な信州高遠藩のお抱え絵師、池上秀畝(しゅうほ)で花鳥を得意としたが昭和十九年に七十一歳で没している。大正七年、この師、秀畝より村田しゅううんがもらった絵手本の掛軸が手元にある。さて、この村田秀麗画伯に関する一連の資料を入手した後、桐生崋山会々長と会った折、「秀麗と言う絵師を知っていますか?」と聞かれた、この桐生での話の発端は、次の通りです。桐生市川内町にある白瀧神社に奉納されている額を描いた絵師が秀麗と言う人であるがこの人が判らない。奉納者は連名で二十三人程になっているとの事であった、当方から手持ちの資料を送付した。その後、山鹿会長の予定では「秀麗展」を計画しているようである。併行して、地元でも秀麗作品が五十点程存在が確認出来たようである。

(熊谷市郷土文化会 理事 馬場國夫記)

この記事に関する事、御意見、ご質問、問い合わせ等お待ちします。馬場國夫氏よりお答えします。 コメントに書き込んで下さい。

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2006.07.21

熊谷の埋もれた絵師展

埼玉県 熊谷市立図書館で次の企画をしております。

 「郷土熊谷の埋もれた絵師展」(仮称)

期日   平成18年10月24日~12月3日

明治時代に活躍した3人の絵師展です。

1、 樋口 春翆 (上中条の人)

2、 荻原 春山 (妻沼の人)

3、 福島 春眠 (三尻の人、川本にもゆかりの人らしい)

三人は、それぞれ師弟の間柄で、企画予定としては、合計50点位展示出来そうです。

現在、準備の途中で最終的な展示数は未定です。

        平成18年7月21日 記

       この記事は、郷土史家の寄稿です。

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2006.01.31

松蘿園(しょうらえん)建物

     (写真は、松蘿園の外観と内部)

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 この建物は渡辺崋山が、大麻生、三ヶ尻に来た天保2年(1831)投泊した。

 当時、この建物の持ち主は、大麻生村名主、古澤喜兵衛(号槐市)で稼業は、造り酒屋であった。

3 そして、この建物は来客用として利用された客殿です。

 構造は、木造平屋建、瓦葺き造りで外観上は質素に見えますが、中は風流に出来ています。床の間二ヵ所、そして8畳間、6畳間廊下となっております。厠はありますが、水屋はありません。食事、飲食は母屋から運んだ為不要でした。

 松蘿園と言う名は、渡辺崋山の命名になるもので、当時、この庭に松と蔦(つた、蘿)があったので、この名が生まれたようです。

6 この建物の価値観は、世界に通じる絵師、渡辺崋山が泊まった建物で現存するのは、日本国内ここだけである点であります。当然改築もされておりません。

  渡辺崋山と熊谷

A 崋山とはどんな人?

  武士(侍)、蘭学者(開国論者)、農政家、絵師、です。

 ロ 寛政5年9月16日(1793年)江戸、三宅候屋敷で生まれる。三宅藩の国元は、三州田原(現愛知県田原市)です。

  体格が良く、気のやさしい人、几帳面な性格であった。頭が良く、努力家、勉強家でもあり、修身の教科書に4ヵ所登場する。

 ニ 反面、痛飲家でもあった。最終的には三州田原藩の家老となる。

  現在田原市に崋山神社があり、神となっている。

B 何故当地熊谷に来たのか?

  藩主、三宅康直の命で、田原藩発祥地である、武州瓺尻(みかじり)の調査に来た、つまり今から約200年前に来て、それより200年前のことを調査した。即ち、徳川家康が関八州を所領し江戸に移って来る時に、竹馬の友である三宅康貞を連れて三ヶ尻近くに来た折、この地3000石をもらい後に5000石になっている。 要するに、家康から三ヶ尻を貰ったのが康貞(三宅の初代)で13代目の康直の時に崋山が渡辺定静(さだやす)と言う、武士の身分で調査にきたのです。

  天保2年10月11日、田原藩江戸屋敷を出発、絵の弟子山本梧庵と下僕弥助の3人つれで、上州桐生を経由して深谷から当地の名主古澤家に到着した。(桐生岩本家に妹が嫁いでいる)

C 熊谷(大麻生、三ヶ尻)に何日くらい居たか。

 約20日間とされているが、場合によれば19日あるいは、18日かも知れない。ごく短期間であったが、その間の仕事量は、膨大でとうてい凡人の及ぶところではありません。(調査結果を主君に報告した写本が埼玉県指定有形文化財となっております。)

 このココログは、熊谷市郷土文化会会員の方の寄稿であります。こいさの意見は入っておりません。御意見、趣味のある方は、コメント下さい、お取次ぎいたします。

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2006.01.27

筆下 起 風雲

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筆下 起 風雲 {古澤文亀(ブンキ)が求めた明治女性像}

       (写真は、古澤文亀の作品)

(一)古澤本家について

当地大麻生(おおあそう)(熊谷市)に最も早く土着したと言われる旧家です。文亀生存中の当家の屋敷は、やや南北に長く、その面積は約五反七畝余でありました。(その後、秩父街道の貫通、駅道りの新設、栗子家の転入で面積は変化した。) さて、文亀の息子に花三郎(妻はのぶ)が居り、孫に善文(戦時中は主計大佐)が出生しています。この花三郎は郡長を務めた人物で、明治二十八年(一八九五)に開通した秩父街道(現在の140号)新設に関し、熊谷から寄居迄の用地買収を担当したようです。この難問題も、新道を自分の屋敷の真中に通す迄に全面協力したので、他の該当地権者を説得するのに多いに効果があったそうです。従って、以来当家の敷地は南北に分離されました。

(二)古澤文亀女史について

本名は、よし。明治三十一年(1898)二月十一日に八十三歳で没している事から、生まれたのは文化十二年(1815)と思われます。戒名は文應妙亀大姉。古澤家の墓地は宝蔵寺にありましたが。数年前に子孫が改葬(移転)しました。

(三)文亀の横顔について

古澤家の屋敷内南にある石碑は幼少より見ておりますが、表の面に彫られた五文字は、「筆下風雲ガ」とよめます。 さて、幕末の文化年間に生まれた文亀は、廃藩置県が実施された、明治四年(1971)には五十六歳を迎えておりました。当時は、男尊女卑の風潮が強い中、嫁の立場で文化・芸能に驀進できたのは、本人の意向もさることながらやはり古澤家の理解と経済力であったろうとおもわれます。一般家庭では、男女を問わず労働力として日夜過ごし、学問に注ぐ時間はなかったでしょう。そのような時代背景の中「筆下に風雲が起こる」は文亀女史の教育方針であったろうし、『女性であっても学問を修める事はたいせつです。近い将来世の中が変化しますよ。だから皆さん一生懸命やりましょうう。」 私には、そんな風に聞こえてくるのであります。

また、この碑は文亀が生存中に揮毫し建立した事実からして、先覚者の片鱗を窺い知ることができる。

毛筆の代用品として稲穂のみごを利用したり、また竹の笹でも筆を造ったとの話であります。そして「みご筆」の作成は、古澤家東南に位置している斉藤家に依頼したようです。当家は、旧「ちちぶ道」にかかる橋のある為、「ハシバ」と通称されており、かっては団子等を売る店を開いていたようです。

一方、身近にある材料で筆の代用とした点も感心する事項であります。平成の今日、私たちにヒントを提供してくれる事例とも言えましょう。

以上、私見も入れて書きましたが、これを機会に多くの人に文亀研究が進展することを願って止みません。また、今回資料提供にご協力いただきました馬場弘平氏と古澤康一氏と斉藤よし氏に厚く御礼申し上げます。

このココログは、熊谷市郷土文化会会員の方の寄稿です。「こいさの意見は、入っておりません。」 御意見その他、興味のある方は、コメント頂ければお取次ぎします。

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